Inherited DNA千葉晃プロから北谷津ジュニアへ受け継がれるDNA

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プロゴルファー・指導者として長年ご活躍され、
北谷津ジュニアゴルフを発展させてくださった千葉晃プロ。 引き継がれる北谷津DNAの原点・千葉晃プロについてご紹介いたします。

千葉 晃

千葉 晃Akira Chiba

1945年~2018年没

全国小学校ゴルフ連盟理事長、北谷津ゴルフガーデン
(財)日本ジュニアゴルファー育成協議会理事

資格 PGAティーチング・マスター称号取得者
ゴルフ歴 1963年 埼玉県嵐山カントリークラブ入社
1974年 トーナメントプレーヤーテスト合格
N.G.F校長アーブ・シュロス氏に師事
アメリカ打法を金田武明氏に学ぶ
1984年 社団法人 日本プロゴルフ協会インストラクターA級合格
1986年 財団法人 日本ゴルフ協会ジュニア指導員
1994年 千葉晃のジュニアゴルフミーティーング開始(北谷津ゴルフガーデン)
2002年 PGAチーフトーナメントディレクター
メジャー、日本プロゴルフ選手権(7回)日本プロシニア選手権(10回)
千葉晃プロを偲ぶ会 2020年1月北谷津にて開催
北谷津ジュニアDNA 千葉晃プロの残したジュニア育成の考え方・良い所を伸ばす

Event / tvイベント・テレビ

  • 1982年、1983年にTBSペアマッチゴルフを企画・解説
  • 国際スポーツフェアー ゴルフ担当
  • アメリカ打法VTRペブルビーチ編 企画編集(アメリカン・エクスプレスより販売)
  • 報知新聞横尾要CAP「全国小学校ゴルフ選手権」(静ヒルズCC)競技委員長
  • 全英シニア、全米オープン、全米プロ,全英オープン解説

writing執筆

  • 「わが子をタイガーにする方法」(2000年 河出書房新社)
  • 週刊アサヒゴルフ/レディースアサヒゴルフ連載
  • サンケイスポーツ100回連載
  • 週刊パーゴルフ「ジュニアゴルフ」連載/夕刊ゲンダイ連載
  • その他新聞・雑誌多数

千葉晃プロから北谷津ジュニアへ
受け継がれるDNA

「イエス」のひと
(住友生命機関誌1987年6月号 深田祐介著より抜粋)

私のゴルフのコーチ、千葉晃氏は大変にユニークなひとである。略)千葉コーチがユニークな理由は、基本的に「イエスのひと」で「ノーのひと」ではない、ということだろう。
スポーツコーチに多く見受けられる「ノーのひと」は、新弟子を見るや、その技術を全面的に否定して、基本から教えこもうとする。
あるいはワンパターンの教育法を押しつけようとする。
いっぺんにいろいろな情報を叩きこもうとするものだから、教えられる方は大混乱をきたして、結局プラスになるどころか、マイナスになってしまう。
こういった傾向はプロ野球のコーチあたりにも適用できそうだが、千葉さんはその辺が違う。まず相手の技術を認めよう。その技術を生かしたうえで、うまく改造していこう、ということで与える情報を最小限に止める。
さぞかしいろいろといいたくて、いらだつと思うのだが、じっと我慢して、相手を励まし、褒めあげ、そのうえで、3ポイントくらいの指示をする。
彼は日頃から、これからのコーチは表現力が絶対の条件といっていて、この3ポイントがいわば勝負どころなのだろうが、きわめて適切、明確な内容の指示である。

千葉晃プロから北谷津ジュニアへ受け継がれるDNA
土屋 大陸

北谷津ゴルフガーデン代表取締役

土屋 大陸Tsuchiya Hiromichi

ゴルファーのために活躍するゴルフ界の匠から、それぞれの仕事に賭けた誇り高き言葉をいただく連載企画。
今回は、ジュニア育成を推進する練習場の代表を紹介します。

17歳の誕生日に開業したショートコース

父が所有していた山林にショートコースが開場したのは、土屋が17歳を迎える当日の1970年9月10日。ゴルフ未体験ながらオープニングセレモニーに駆り出された。「ゲストの佐藤精一という日本プロを優勝した人が、右手一本でワンオンさせたのを目撃したときはドキドキしましたね」
しかし、その光景だけではゴルフに興味を抱けなかった。むしろ土屋は、元来慎重な父親がコース経営に踏み切った先々を心配したという。
それを踏り切るようにして自分の道を歩み始める。学生運動で閉鎖気味の大学に関心が持てず、東京にアングラ劇団に傾倒。舞踏の第一人者だった麿 赤兒(まろ あかじ)の弟子となる。
ひたすら表現活動に身を捧げ、15年を経て故郷へ。自ら潮時と見極めたが、後ろ髪を引かれ続ける思念の満ち引きもあったそうだ。「東京にいる間、何度も戻ってこいコールがあったんです。それがずっと引っ掛かっていた。実は本当の父親ではなく、早くに亡くなった実父の弟。だから育ててくれた恩義もあり、自分は長男だし。父親は食えなくなったから戻ったと言っていたらしいですよ。反論しませんでしたが」
その時点で34歳。コース管理を含め、芸能しか知らなかった身に練習場経営の基礎を叩き込んだ。そうこうしている2年目、ある人物を紹介される。会うなりその人は「ジュニアに興味はないか」と切り出した。「その頃、近くの県立泉高校ゴルフ部に練習場を開放していたので、高校生ならやっていますと答えたんです。そうしたらこう返されました。『もっと小さい子。想像してみて。日本の子供が世界中の子供たちと楽しくゴルフをやる姿を』と」それが千葉晃だった。

異能同士の邂逅となった熱く語る指導者

土屋より8年早い1945年生まれの千葉は、1974年にトーナメントプレーヤーテスト合格。1984年に日本プロゴルフ協会インストラクターA級を取得し、土屋が実家で働き始めた1986年に日本ゴルフ協会のジュニア指導員資格を得ていた。すでにジュニア育成に取り掛かっていた千葉は、直面している壁の大きさを土屋にこぼした。「子供が練習できる場所がないと言うんです。それはそうだろうと。高校生ならまだしも小学生ともなれば、安全に受け入れる体制を整えるのが難しい。それにバブル絶頂期でしたからね。ウチの当時の最高記録は、ショートコースに約400人。打ちっぱなしに約1000人。そんな時期に子供のために時間を空けたいと父親に相談したら、一蹴でしたよ」
だが、土屋は、誰もが浮かれる好景気の渦中で「このままでいられるはずがない」という言いようのない危機感を覚えていた。その正体を知るために立場が異なる千葉の話を聞いたのか?いや、経営的な直感以前に、土屋には熱く夢を語る異能同士の邂逅が必要だったのではないかと思う。彼はこう振り返る。「現実できる道を探って何度も話し合い、何回も酒を酎み交わしました。千葉さんはゴルフ界を語り、僕は舞踏による精神論を語った。異なる世界なのに通じるものがありました。千葉さんの考え方でもっとも感銘を受けたのは、ゴルフは楽しくやるもの。長く楽しくプレーするには、子供時代から個性を尊重しなければならないこと。その理念が浸透して、結果的にウチから何人ものプロゴルファーが生まれましたが、プロの育成が目的ではないところが素晴らしかった。それを実践するためには、自分に続く指導者も育てなければと」

モミジみたいな手でも振られる特注のクラブ

数年かけて、語り合った夢は、異常景気が鈍り出した90年代に入り具体化し始めた。土屋は、どこも手を出し切れていないジュニア育成を今後の生き残りという切り札にして、ついに先代を口説き落とした。その上で、現実できるならボランティアでも構わないとした千葉の申し出を断る覚悟を持った。千葉と同等でいるための矜持だったのだろう。「主催はあくまで北谷津。施設を整えるのも自分の役割。それは譲れなかった。だから最後まで足らなかった子供用のクラブも、千葉さんの紹介でつくってもらいました。5歳から8歳まで年齢別で3パターン10セット以上。だってモミジみたいな子供の手じゃ、長さを詰めただけのクラブは振れないでしょ」
部室と呼ぶ練習場2階のミーティングルームから土屋が掘り出したそのクラブの、楊枝みたいなグリップの細さに驚いた。これが不可欠と千葉に説かれ、土屋が特注した一品。「もっと大事にしておかなきゃね」と彼は笑った。
自分の誕生日にオープンした場所。志のある指導者。そして無理なくプレーさせるための道具。未来を創るために欠かせない3つの要素がすべてそろった1994年の夏、レッスンを主体とした『千葉晃のジュニアゴルフミーティング』がスタートした。同年の秋にはショートホールを利用した競技形式のイベントを開催。ミーティングと称したのは、土屋と千葉の二人が誓った「楽しいゴルフ」を示すためだった。
それから28年。ジュニアゴルフミーティングは300回を越えて現在も行われている。「競技形式の第1回目に地元千葉の子がいてほしくて、おじいちゃんと練習に通っていた小学3年生の勇太に声をかけたんですよね。萌寧は東京に住んでいたけれど、11歳で家族と近所に引っ越して練習を続けた。努力の子ですよ」
望まれた指導者もミーティングの中から育った。18歳で北谷津ゴルフガーデン所属となり、2021年にシニア賞金王となった篠崎紀夫は、千葉の継続者として子供たちを見守る存在になった。
理念や理想を貫くのは美しい。しかし経営視点に立てば、不変を維持するコストは相当ではないか?そうたずねたら、土屋は苦笑いを浮かべて答えをはぐらかした。「変わらないものは他にもありますよ。日本のゴルフ事情はジュニア育成を阻害し続けている。勇太たちの活躍で方々の団体から視察の申し込みが増えても、実現に動いたところは少ない。ウチだけが頑張ってもダメなんです。アメリカのファーストティ・プログラムのように社会的な支援が整って、裕福ではない家の子供にもチャンスを与えられる仕組に変えなければね」
それは最初に千葉が土屋に語った夢でもあった。その千葉は2018年に他界した。これは北谷津ゴルフガーデンのジュニア育成ではほぼ唯一の変化と言える。

遊びの天才を型にはめないだけ。

「なぜプロが育つのか、まるで魔法があるような聞かれ方をしますが、そんなものないんですよ。ただ、子供たちは遊びの天才じゃないですか。持って生まれた才能を型にはめないだけ。それを北谷津DNAと呼べばいいなかな。そうして生涯に渡るゴルフ愛好家を増やしていく・・・・・・」
それが目的?「目的と言われたら、違うなあ」
何となく答えを渋る土屋にしつこく迫った。「3つの要素をそろえた俺たちはジュニア育成の創業者なのだと。だから続けなければ。千葉さんとはそんな約束めいた話をしたんですよ」
たぶん、これが源流の景色。
それからもう一つ。午後の2時間を超える取材中、"現在も通う"プロは練習場にいた。その光景に触れただけで、この場所に流れる清らかなものを感じ取ることができた。

引用元:〇〇〇〇〇〇〇〇

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